[外伝] “Monochrome の北海道 1966-1996” そして Ektachrome の頃

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中丿沢 林立道路踏切

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鉄道における距離標と云うのは古くは哩程標と呼ばれ創成期からのものである。線状の構造物上での地点を特定するには一端からの距離によるのが最も合理的ゆえに当然ではあろう。鉄道に関わる最初の体系的統一的法規であった「鉄道建設規程」(1900年8月10日逓信省令第33号)と同時に部内規程としてまとめられた、後に云う線路諸標に関わる「定規」は、その冒頭に「現在ノ諸標ハ建換ノトキ迄存置スルモノトス」の一行を置いて、哩程標がその鉄道の出自により様式の統一されないながらも、既に広く建植されていたことを示している。

函館から小樽までを建設した北海道鉄道(初代)も、1902年12月10日の函館-本郷(現渡島大野)間開業に際して函館に0哩標を置き、上記定規制定後であるから、以降の延伸区間も含めて1哩ごとに甲号哩程標が、その中間の4分の1哩(=20鎖)ごとに乙号哩程標が建植されたはずである。
ところが、小樽までの全通を前にした1904年7月1日に起点側に線路は0.6哩延伸され、その先に新たな函館停車場が開かれる。この際に函館改め亀田停車場から0哩標が移転したものかは手元文献の限りには調べ得なかった。起点の変更とすれば、本来なら全線に建植された哩程標の建替を要する事態ではあるが、それを実行したとは思えない。亀田の0哩標からマイナスに哩程標を建てたものか、現在であれば新駅を起点に亀田の0.6哩を0哩と読替える距離更正の行われるところだが、その手法が規定に現れるのは、1925年に部内規程として制定の「線路諸標整備心得」(1925年11月25日達第937号)からなのである。但し、その第二条条文が「距離更正ヲ要スル場合・・・」とだけ記すところからは既存の便法だったとも受取れる。
いずれにせよ、大変な手間である哩程標の建植替えは行われなかったに違いなかろう。北海道鉄道の国有化後の1909年10月12日付では旧北海道炭礦鐵道線(かつての官設幌内鐵道)・北海道官設鉄道上川線とつないで函館-旭川間が函館本線と制定されるのだが、この際にも小樽(現南小樽)以北区間の哩程標が函館起点に建替えられたとの記述も確認していない。ここでも、従来の、即ちはその路線建設以来の哩程標が、それぞれの起点での距離更正により引続き用いられたものと思う。

とは云え、いつまでもそれで良いはずもない。是正の機会は1930年4月1日に訪れる。この日を以て鉄道省は度量衡を従来のヤード・ポンド法からメートル法に改め、全国の全ての線路にて現在にも引継がれる哩程標改め距離標の建替が施工されたのだった。
函館本線は、1924年9月1日に函館-五稜郭間を亀田経由から西海岸寄りを北上する現経路に改められており、また、遡ること1915年6月15日には函館の乗降場から木造桟橋上まで着発線が延伸され、そこに桟橋仮乗降場が設けられて長距離優等列車が着発していた。このため、メートル法による距離標はこの桟橋に起点の甲号標を置いて建植されたのであった。
以来、函館本線の施設上の起点は桟橋にあり続ける。1924年10月1日に上記の木造桟橋を廃しての将来の車両航送岸壁の一部供用開始には新岸壁に桟橋乗降場も移転するが、この際に起点甲号標は函館停車場中心から木造桟橋までと同距離の0.18哩、メートル換算で290メートルの位置に移されたのだった。付け加えれば、この新たな起点は桟橋乗降場には位置したけれど、その中心ではなかった。これを桟橋とのみ呼称した所以のひとつである。

前置きが長過ぎてしまった。林立道路踏切である。中丿沢停車場北方のこの踏切は桟橋起点108K450Mに位置する。函館本線の撮影ロケイションで気をつけねばならなかったのが、施設上のキロ程と営業キロとの間に現れる桟橋-函館間の290メートルの差であった。うっかりすると、中丿沢の函館からの営業キロ107.7キロを差し引いてしまい、駅まで750メートルあまりと距離を錯誤するのである。実際には中丿沢は桟橋起点107K980Mにあり、林立道路踏切までの470メートルは、ここが中線を持っていた当時には直近まで、600メートルに迫らんとした長い有効長の場内が延びていたことになる。
この踏切にも飽かずと幾度も通った。長万部で早朝に走ってくれるタクシーが手配出来なければ、温泉街の宿を午前4時前には出て未明の国道の5キロ余りを歩きもしたのだった。この付近からの中線を外された旧場内は離れた上下線の間隔に上り線越しの下り列車へ適度な引きが取れ、まるで駅間の如くの上に、山側に通信線柱の無いすっきりした画角で望めれば、早朝に下って来る本州からの寝台列車群には打ってつけの位置だったのである。
けれど、その上下線間にススキなどが盛大に繁茂するシーズンも在って、渡道初日に函館から北上する特急の車窓にそれを認めると、その旅での訪問は諦めたりもしていた。特に1990年代半ばの数年は全くに撮れなかったと記憶する。
本編Blogには、中丿沢 (函館本線) 1991中丿沢 (函館本線) 2009 を掲載させて頂いているけれど、幾度も立った割りには、満足の往くカットは手に出来ずに終わりそうである。
中丿沢 (函館本線) 1997 は、ススキの立ち枯れる冬期を選んだものの、やはり些かに目障りではある。

林立道路踏切から中丿沢方を望めば、黒々とした吹雪防止林が続く。通信線がここで山側から海側へ渡るのがお判りかと思う。中線の健在な時代には、その付近に分岐器が所在して、踏切の手前に上り場内信号機が建てられていた。ここは場内の踏切だったのである。

Photo by GR Digital+GRLENS 5.9mm/f2.4 Edit by Lightroom CC on Mac.

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